自分は「推し活」をやっていない

中学生くらいの時から今に至るまで自分はいわば「オタク」な趣味を楽しんできた。

今と比べ物にならないくらい偏見や好奇の目がひどかった時からのオタクである。

ところで昨今は老若男女関係なく、かつてオタク扱いされた趣味(アニメ、ゲーム、マンガ、鉄道その他もろもろ)を楽しむ時代になった。

昔みたくオタクオタクした見た目の男女だけがオタクコンテンツを楽しむ時代ではなく、見た目も中身も「一般人」がかつてのオタクコンテンツの世界に続々入ってきて楽しむ時代である。

それ自体は別に非難するようなことではないし、かつて偏見や好奇の目で自分のようなオタクが差別されてたことを考えると良い時代になったとは思う。

しかし、昔からオタクをやっている身からすれば昨今オタクコンテンツを消費するようになった人たちと自分たちとはやってることが根本的に違うと思っている。

具体的には自分は昔ながらの「オタ活」をしているが多くの人は「推し活」をしている。

どちらも同じようにコンテンツを楽しんでいるように見えるので同じことをしているように見えるが、実際は全然違う。

自分とコンテンツの間に「他者」が挟まるのが推し活

自分は他者の評価や目線など関係なく、自分が面白い楽しいと思ったコンテンツを消費している。

昔ながらの典型的な「オタク」である。

それに対して「推し活」という言葉や活動には「他者」との関係性がもれなく含まれる。

そもそも「推す」という言葉には「他者にすすめる」という意味がある。

自分一人で楽しむだけでなく、そのコンテンツの良さを他者に広めたり他者との関係性でルールを守ったり空気を読む必要が出てくるのが「推し活」である。

自分は他者からどう思われようと好きなコンテンツを楽しむつもりでいるし、自分が消費しているコンテンツを他者にすすめようという気持ちは全然ない。

自分がやっている「オタ活」と多くの人がやっている「推し活」には大きな差があることが明白だ。

コンテンツを世に生み出す側の人たちからすれば「ふざけんな、自分が良いと思ってるなら他者にも拡散しろ。そしてこっちが決めたルールを文句言わずに守らんかい。」と思うだろう。

しかしオタクというのは本来他者の目を気にせず、他者からすれば何が良いのかわからないものにドハマりする極めて「自己中心的」な人種であるはずだ。

他者の存在や関係性など一切関係ない。

だから特定のコンテンツを消費する際に、コンテンツを提供する側あるいはそのコンテンツを「推し活」している人たちがあれこれルールを決めたり空気読みを他者に半ば強制してくることにすさまじい違和感を持ってしまうのだ。

具体的にはVtuberが概要欄にひとりよがりな「配信のルール」を作ってリスナーに押し付けたり「流れに乗るしかない」などと次々とスパチャを投げて他者にもスパチャを投げるようあおる行為などなど。

僕はよっぽど人や社会の迷惑にならない限り、コンテンツをどう楽しもうが自分の勝手だろうという意見を持っている。

しかし「推し活」をしている人からすれば自分の考えはとんでもないものだろう。

くどいようだが「推し活」はコンテンツと自身の間に他者との関係性が挟むものだ。

他者との関係性をはさむ以上、ルールが必要だしいわゆる「空気読み」も必要になるということだ

冒頭で老若男女がかつてのオタクコンテンツを楽しむ時代になったと書いたが、昔から存在するオタク活動に多くの人が参入してきたのではなく「推し活」という新たな分野が出来たと表現したほうがいいだろう。

そりゃ同じコンテンツを楽しんでいても考え方や認識に「推し活派」と根本的に違いが出てくるのは当然である。

自分は一貫して「オタ活」をしているから「推し活」をしている人たちと根本的に分かり合えないだろうし、また自分がやっていることを「推し活」と表現されるとかなり違和感を持ってしまう。

まとめ

・昔から存在する「オタ活」と「推し活」は全然違う。その差は他者を挟むか否か。

・自分とコンテンツだけでなく「他者」を巻き込むのが推し活。他者を巻き込む以上それは公共のもの扱いになり「集団」としてコンテンツを消費することになる。よってルールが空気読みが必要になる。

・昔ながらの「オタ活」をしている自分と、その他大勢の「推し活」をしている人たちと考え方や行動が根本的に違ってくるのは当然と言える。

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