不特定多数に向かって発信するということの意味を考えたほうがいい

超大手Vtuber事務所のホロライブがファン向けの声明を発表していた。

https://hololivepro.com/news/20230517-01-27/

一通り読んで違和感を感じたので書いていきたい。

現状でも十二分にファンから甘やかされてるのでは?

詳しい内容は直接読んでもらうとして、声明文を要約すると「意見や考えの違いを認め合って運営と一緒に「推し」を見守っていこうぜ」という内容だった。

パッと読んだ感じではすごくいいことを言っているように読み取れる。

しかし、熱心ではないにせよ時折ホロライブのVtuberの配信を見る身としては、すごい違和感というかこの期に及んでまだファンに求めることがあるのか、甘やかされたいのか?と思ってしまった。

ホロライブは超人気なので、同接人数が1万人超えることも全然珍しくないし配信中1万円越えの投げ銭(赤スパ)がバンバン飛び交っている。

投げ銭の頻度や金額がえげつないので、配信終わりにやる「スパチャ読み」も1万円を超えた赤スパしか読まないくらいである。

またVtuber界隈はなぜか「推しのVtuberがやることなすこと全肯定するのが当たり前」などという不可思議なルールがあるので多少(実際は多少どころじゃないレベルのやらかしもしているが)Vtuberがやらかしても面と向かって非難するファンは全然いない。

現状でも甘やかされて大金を稼いでいるのに、まだ甘やかされたいのかと声明文を一通り読んで思ってしまった。

不特定多数に発信すれば不特定多数の意見や考えにさらされる

当たり前の話なのだが、コンテンツを不特定多数に発信すれば不特定多数の意見や考えにさらされるのは当然である。

全部が全部肯定的な意見や考えしか出ないなんてことはありえない。

「ちがいを認め合い」というのであればコンテンツを発信することによって出てくる、消費する側の「不特定多数の意見や考え」を発信する側も認めるべきでは?と思う。

なぜお金や時間を費やしてコンテンツを消費する側が運営や配信者にそこまで気を遣わないといけないのか。

株式上場するほど成長してきたからコンテンツを「見せてやっている」と思っているのだろう。

代わりのコンテンツなんていくらでもある

これはコンテンツを作って発信する全ての人間が自覚しておくべきことだが、今の時代はコンテンツがこれでもかってくらいあふれかえっていて低コストで一生を費やしても消費しきれないほどある。

昔みたいにアニメ一つ見るのですら地域によって放映されておらず見れなかったり、レンタルビデオ屋さんに行って数百円支払って一つの作品を借りるのがやっとという時代ではない。

代わりのコンテンツなんていくらでもあり、低コストで消費し放題の時代にコンテンツを生み出す側が数多くのコンテンツの中から見つけてくれたファンに向かってあれこれいう資格なんてあるのか?

ファンに向かって「うちのコンテンツはこういう風に楽しんでください」と公式に発表することが傲慢であるという考えはないのか?

「じゃあ結構です他の人見ます」「アニメとかゲームとかいくらでも楽しめるんでそっち行きます」が大半になれば困るのはそちら側だろう。

いい年した大人なのに恥ずかしくないのか?

そもそもバーチャルの姿では若く見えてもいわゆる「中の人」はいい年した大人であることは暗黙の了解である。

その「いい年した大人」が自分たちをもっと甘やかしてくれ見守ってくれと公式に発信することに何の違和感も恥ずかしさも感じないのだろうか?

映画カイジのセリフでゲームのルールに文句をつける参加者に対し主催者が「世の中はおまえらのお母さんではないッ!」と一喝する場面がある。

まさにこれだ。

現状でも十二分にファンから甘やかされ、他人が作ったゲームや楽曲を使ったり雑談するだけで万単位の投げ銭をもらうような「甘い世界」に生きているくせに何が不満があるというのだろうか。

そんな恵まれた世界で生きている以上多少なりとも反感を買ったりやっかまれるのも当然だし、それらが込み込みで「おいしい思い」が出来る仕事だろう。

エンタメの世界、コンテンツの世界はいつの時代も「人手不足」に絶対ならない世界である。

これだけファンや社会から甘やかされてるのにまだ求める姿勢に対しては「足るを知れ」と言いたいものだ。

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